目次
子供を勘当する親の心
離婚の資格…こう書くとどこかの試験を受けに行く必要でもあるかと思いがちですがそうではありません。私が離婚を決断に悩んだとき、どうしても「離婚する資格があるか?」ということに迷いました。私達元夫婦はスキー場のバイト同士として知り合い、スキーシーズンが終わり、バイトの人たちはそれぞれの自宅に帰って行くという事で解散をします。
しかし、私の元夫は父親から勘当されていたため、帰る所がなく大阪に帰った私のアパートに転がり込んできた、という安易な結婚生活が始まりました。当時の私は元夫から義父の悪口を聞くつけ「息子を勘当するとは何という冷たい父親、それなら私が大事にしたる…」という私の親分肌の性格から結婚生活のスタートとなりました。今にして思えば親が子供を勘当するなんてよほどのこと。義父も本当は辛かっただろうなと思います。
現に私も子を持つ親になり長男が家庭内暴力でどうしようもなく心を鬼にして勘当した事があります。しかしこの後、子の友人から長男が内緒で住み込みで働いている事を聞き、居場所を教えてもらい、健康でいるかどうかだけは気にしながらその方向に向かって毎日泣いていました。
当時は義父の気持ちも理解できず、夫の言う事だけを信じていたため、義父とも絶縁状態でしたが、徐々に結婚生活の中でその夫が勘当された理由を理解するようになっていきました。(大学の月謝を使い込み、ステレオのローンを親に押し付け、入学1週間で大学も辞めてしまうという離れ業と怠け癖…)当時はフォークソングの神田川の時代。夫は元々優しい性格でしたのでそれなりに幸せでした。特に2人とも音楽が好きな私達は夕食後に歌ったりレコードを聴いたり、ギターを弾き唄ったりと、貧しくてもとても楽しい暮らしでした。そうした流れの中で可愛い2人の息子を授かりました。
頭の良かった夫は異例の出世で28歳で課長になりました。しかし当時はバブルの真っ只中。会社の経費で遊べる事を覚え、接待接待で連日朝帰り。その頃、体の弱い長男を抱いて私は毎日病院通い。そして仕事と称して毎日深夜帰宅の夫に「父親としての役割を果たしてくれない!」とよく喧嘩をしました。私も子供を抱えて不安で仕方がなかったのです。 そうするうち、段々私たち夫婦の間に隙間風が吹き始めました。
離婚は”話し合いが成り立たない夫婦”がするもの
元々お酒の好きな夫は深酒の結果、怠慢勤務、そして浮気…と転落していきました。色んな出来事を経て やはり夫の勘当された理由が納得できる怠け者の部分が顔を出し夫婦として継続してゆく自信がなくなりました。でも、だから離婚しましょう…とはならず、ここからが苦しみの始まりでした。 結婚は「楽しい楽しい」と勢いで進んでいきましたが、離婚はそうはいきません。
離婚を考える人に他人はよく「二人でよく話し合って…」と簡単に言います。(離婚調停でもよく言われることですが特にテレビの悩み相談、思いっきりナントか…など)と、よく言いますが 実際話し合いが成り立たない夫婦が離婚をするのですから、今まで揉めてきて離婚のときだけ話し合いでピタっと着地点が見出せるわけが無いのです。それなのに話し合いで…と言われたら、本当に出口がなくなってしまいます。 私は性格テストをするとよく「責任・資格」等を中心に物事を考えている傾向があるそうです。何かにつけ私の堅い性格の特徴だそうです。
私の考え方の癖として家庭とか夫とは何か?ということを考えた場合「責任」という言葉が浮びます。私は結婚生活の中で、夫に父親としての責任を問い、一家の大黒柱として経済力を求めました。でも今から考えると、男であれ女であれ、いくら役割分担を強いられても出来ないものは出来ないのです。また出来ない時期もあるのです。
今にして思えば、私は夫に責任だけを押し付けていたように思います。夫は本当はそんな強い人間ではなかったのですが、私が勝手に「男はこうするもの」という過大な責任を押し付けていました。それに対して夫も「自分はそんなに強い人間ではない」とも言えず、虚勢を張っていたように思えます。そして矛盾するのですが、私も自分に対して責任という言葉を中心に物事を考えていたように思います。
離婚は結婚という責任を放棄すること
だから離婚は「結婚という責任を放棄する事」と堅く考えていました。離婚という苦難は私達夫婦が生み出した結果です。この責任は私にあるのに、息子達に離婚の苦労を背負わせるのはとても嫌でした。なぜなら結婚を放棄する無責任な私と違って息子達は何も悪い事をしていないのだから。 私は結婚生活27年、全部自分で苦労して乗り切ってきたと考えていました。
これは私にとってとても大切な時間で「耐えて頑張ってきた私は偉い」という自信でした。それなのに結局離婚を選ぶという事は「私の27年間何だったのか?」という敗北感と、「そんな男を夫にした私の目が節穴だった」という自分にダメだしの烙印を押されるようなもの。これは夫を否定するというより、私を否定することでした。 だからそれまで離婚が頭をよぎっても、いつもこうした屁理屈を私の中でこねくり回して離婚を避けていました。
普段、私はプライドはあまり高くありませんが、こうした「私」というプライドがいろんな場面で邪魔をしていました。今にして思えばプライドというより断を下す事の不安感であったと思います。こうした思いの中で「子供の父親を取り上げる資格は私にあるのか?」・・と、とても苦しみました。 だから例え離婚をしても何とか元夫婦、元親子で会える機会を持ち父親として、将来息子たちが生きて行く上で 岐路に立った時の力になってあげて欲しかった・・・
そういう可能性を残した離婚を望んでいました。 でも実際 まもなく元夫はあっさり再婚をしたと知りました。だからもし夫が子供達に会いたければ言ってくるだろうし 会いたくなければ何も連絡してこないだろうし・・・・心配していたより 「な~んだ」という感じで拍子抜けしました。 あまり肩肘張って考えなくてもなるようにしかならない・・・というのが結論です。 ちなみに離婚して5年経ちますが 夫とは連絡は取っていません。おそらく今の結婚生活を大切にしたいのだろうと思います。これはこれで夫の健康管理をしてくれる人が見つかって素直に嬉しく思います。
私にもっと包容力と経済力があれば
ではまた本題に戻りますが、離婚に至る事情は本当に書きつくせないほどありますが、今風に言うと性格の不一致、価値観の違いでしょうか。でもそれもこれも私にもっと包容力と経済力があり忍耐力があれば 離婚せずに済んだのかもしれないと考えています。 私は結婚生活中、色んな問題を夫のせいにし、夫をなじってきました。しかしこれとて私がもっと大きな人間であったら 越えて来れたかもしれないと思うと、今にしては離婚に至る道は私が引いたのかもしれません。 正直、結婚生活での揉め事は 経済的な事が大きいです。
しかしこの経済力があったら、今の私だったら離婚をしなかったかもしれません。生活費がない事をどれだけ夫婦を敵同士にするか・・・・・・ちなみに元夫は陶芸家です。今、思えば素敵な職業です。清水焼のような綺麗な器ではありませんが、土のにおいのするしっかり暮らしの中で使える物を作ります。しかし、アイスホッケーをする息子がいる高校受験時に仕事を引退するとはナニゴトぞ・・・私には家庭を持つ父親としての責任感を感じられませんでしたので喧嘩の連続。
でも今となってはもし私にもっと稼ぎがあったら夫をなじらず陶芸家としてデビューさえさせて上げられたとさえ考えてしまいます。(あ、こういうことを書くと私がまだ夫に未練があるように思われますが これは誤解です。越えてきたからこそ言えるのであって、また同じ苦労をしろと言われたら真っ平ごめんですし、気持ちがなくならなければ女は離婚できない動物です)でも、これも今離婚という大事業を終えたからこそ、その余裕で言える事かなとも思います。妻として夫を支えるという力が無かったと反省する私は、はっきり言って「男気性」です。
これは家に男が2人いたようなもので、妻としては可愛げの無かったと思っています。とかく離婚という進退を決めるときマイナス思考になりがちな中、私がどうしても決断できなかったのは妻としても駄目で家庭人としても合格点でない私には離婚する資格があるだろうか?ということでした。こうして自信を失っている人間が物事を決断するという事は大変キツイ作業ですね。
離婚決断に当たって悩んだ点
整理をすると離婚を決断するに当り、こんなことを悩みました。
- 恋愛の流れでたいした考えも無く結婚したが、離婚がその結果だとしたらあまりにも無責任で息子達に可哀想じゃないだろうか?
- 物事や夫を見極める目も持たなかった私がはたして離婚を決断する資格はあるだろうか
- また、私の決断は正しいとしても私が息子達から父親の存在を取り上げる資格はあるだろうか
- 子供達は母親だけの暮らしで幸せにして上げられるだろうか(息子達は私に気を使い本当は辛い・・・何て事は言わないだろうから)
- 男として父親の背中を見て育たなかった息子達は将来、どんな人間になるだろうか?離婚という結論で父親像がすべてマイナスにならないだろうか?
こうした悩みが私の頭をもたげました。離婚後の生活が恐くなかったと言えば嘘になりますが、私は元々働く事は嫌いではなく家計も私が担っていたため、貧乏はしても何とか息子達を食べさせていく自信はありました。ただ、「父親の存在は私ではカバーできない」という恐怖心が拭いきれませんでした。
これは父親としてまったく手本になる要素が無い場合や、妻子の身に危険があるDVなどとは違い、私の元夫は甲斐性はありませんでしたが、人間として悪い奴でもなかったため、考える時間があった分だけある種、幸せだったのかもしれません。それだけに離婚という事が私だけの責任に感じて仕方がなかったため、余計に私が正しいかどうか決断の荷が思ったことは確かです。
息子の家庭内暴力
離婚前、私達は仮面夫婦をしていました。働かないくせに(実際陶芸では食べていけないという意味)私や子供達に偉そうに言う夫を私は立て、父親には逆らわせないという一見、平和を装っていました。しかし実際私達夫婦が終わっている事を長男は見破っていました。 だから長男はその家庭内離婚に違和感を感じ起し家庭内暴力という事で抵抗を示しました。そうした場合本来なら母親には刃は向かないものですが 偽った夫婦の姿に対して私にまでも包丁を突きつけてきました。私に対してもアレルギーを起したのでしょう。
それでも私は気がきついのと やけになっていた事もあり、長男の前に立ちはだかり「もうお母さんも疲れた、殺すなら殺せ、子供を犯罪者にはしたくないけど息子に殺されるなら仕方がない」というと長男は 「お母さんを本当は殺したくないんや、だから僕の前から逃げてくれ、自分でもこの気持ちを止められない」と泣きながら 言っていました。仮面夫婦をしていた私にマグマを爆発させた瞬間でした。まっすぐな子供達を歪ませたのは 私のせいです。その時 私は気が付きました。苦しんでいたのは 私だけじゃない。仮面夫婦なんてしても ちっとも子供は喜んでなんていないんだと・・・
それでも次男もいましたのですぐには離婚はしなかったのですがしばらくして別居をしていた夫から離婚届は手紙で届きました。 それは いつものへたくそな字で「まりちゃんへ」・・・ナント簡単な・・・・離婚をしたいというのではなくどちらかというと「もう家庭生活から脱退させてくれ・・・」という感じでした。
「うそ~?離婚を宣言するとしたら私でしょ?あんたは離婚をいう資格は無いって」・・・・
あっけないものでした。27年間の結婚生活はこうして終わりましたが今思うことは 「私ばっかり苦労をしてる」という私の考え方ですが 夫も苦しんでいたんだな・・・・と判りました。だから夫から言い出した離婚は夫も「荷」を降ろしたかったのだという感じです。そしてその離婚届で少し救われるものがありました。それは「夫は何も考えていない」と思っていましたがちゃんと考えてくれていたんだな・・・という事です。
この手紙が届いたのは 次男の高校卒業を終えた時でしたから・・・・。何とか息子の高校を終えるまで父親でいてくれた・・・・「オウ、案外いいとこあるじゃん」という気持ちでした。その後 長男は私達の離婚を機に猫のようにおとなしくなり、早くに家庭を持ちました。今では可愛い3歳になる孫がいます。
ケセラセラ
よく1人でやっていけるだろうか・・・とか父親が必要なのではないだろうか・・・と悩む女性がいますが妻として夫を必要としないのであれば子供達も父親を尊敬しないでしょう。もっと言えば子供達に悪影響を与える父親だっているのです。私はなんでもかんでも離婚をすることは考え物だと思います。
しかし「とにかく離婚はマイナスだ」という考えの下に ズルズル離婚を伸ばしているとしたら妻(母親)以外に 子供達のほうが苦しんでいる場合だってある事を気付くべきと思います。熟慮し、どうしても結婚生活を続けられないなら子供達に影響が言う前に 案ずるより生むが易しのケセラセラで行きましょう。
余談ですが、これほど逞しい私でも今でも泣いてしまう歌があります。すべての事を越えてきたつもりですが、この歌を聴くと何故かたまらなく泣けてしまいます。それは「ドキドキ一年生」です。(正式な題名は?です)可愛い歌詞なのです♪ドッキドキドン 一年生~♪
なぜか 我が家には長男も次男も小学校入学の時に問題が起きていました。入学準備も何も出来ないくらいの経済状態でした。長男の小学校入学式の時、夫が言った言葉は「机もいらない、本気で勉強するならダンボールで良い」ということでした。結局経済的な準備が出来ない苦し紛れの夫の強がりでしたが「小学一年生が本気で勉強も何もあったものか・・・それよりランドセル買うお金くらい用意してきてよ・・・・」こんな状態でドンパチ喧嘩してましたから入学式の写真の私の顔は悲しい目をしています。
また次男の卒園式でもそんな事が頭をもたげ卒園のお遊戯にも可愛いやら悲しいやらで涙でグチョグチョ 。そしてやっとこさ普通に暮らせるようになるとまた夫が仕事を無断で仕事を辞めていたり・・・またまた次男の一年生入学の時も同じ状態で・・・・何故か夫は子供が入学式や進学の時期に仕事を辞めているのです。本当は子供の入学の時には家族で祝ってあげたかった・・・・
でも強がり性格の私は私の母親にすら夫の悪口を言いたくなく入学準備を甘える事すら出来ませんでした。結局子供の進学の時に家族で一度も祝ってあげた事がありません。今でも毎年4月の桜の時期にこの曲がコマーシャルで流れます。この曲は弱いのです。とても悲しく思い出され子供達には悪い事をしたな~と思います。正直、今この記事を書いていてもこの曲が頭をかすめ、ボロボロに泣いています。
あと何年したらこの事を乗り越えられないのでしょうね。でももうそんなことばかり言ってられませんので孫の入学式にはこの曲を笑って聴けるよう明るいおばあちゃんになります。アンケートによると・・・・「結婚を後悔している人はいても離婚を後悔している人はいない」このような結論がでましたので皆様、前向きに…あすなろ(*)の精神で頑張りましょう。
アスナロ(翌檜)ヒノキ科 Last modified: Dec 03, 2005
〔補説〕名の由来を「明日はヒノキになろう」の意からとする俗説がある
学名:Thujopsis dolabrata
別名:ヒバ
花期:春
日本特産種の常緑高木です。葉は熱い鱗片状でクロベ(黒檜)より大きい。「明日はなろう,ヒノキ(檜)になろう」ということでよく知られています。でも,牧野植物図鑑では「明日はヒノキになろうというのは俗説である」と片づけています。ヒノキ科アスナロ属ですが,この変種にはヒノキアスナロという名前のついたものもあります。