目次
激動の生い立ち
「この人となら!」と思って将来の伴侶を選んだ方は少なくないと思います。でも今「自分はそうだったか?」と思うと考えるところはたくさんあります。
そもそも自分が結婚に求めたものは何だったのか・・・。私の生まれ育った環境は祖父祖母、父親の兄弟も同居の大家族でした。父親は男3人兄弟の長男で、第一子は男の子を強く望んでいました。ところが生まれたのは私・・・女の子でした。
初孫の誕生は喜ばれたものの厳しく育てられ、立ち居振る舞い箸の持ち方一つにいたるまで教育したのは祖母でした。我が家の実権も全て祖父祖母にあり、母は台所に立つこともままなりませんでした。
その5年後待望の第2子、男の子が誕生しました。でも未熟児のため生まれてすぐ亡くなってしまいました。
一家のやりばのない矛先は母へと向き、父もお酒におぼれ、仕事でも詐欺にあい、会社には責任をとり辞職、やくざの女の人と浮気をし、家のお金を持ち出し10年間帰ってきませんでした。
その間母は祖父母を養い生活をしていくために仕事にでるようになり、私は益々祖父母の下で過ごすことになりました。3人の男児を育てた祖母はそれはそれは強く私にとって恐ろしい存在でした。
男の子相手にも「負けるな」の精神で、かけっこも1番でないと努力は讃えてもらえませんでした。
毎日母の悪口を聞かされ、厳しく躾けられ、祖母の機嫌を損なわないように暮らすのが精一杯で息苦しいものでした。祖父母に怯え、両親の温もりも感じることはあまりなく、大人のために子供は我慢をする生活が長く長く続きまいた。
その中でわたしの唯一の居場所となったのはクラブ活動(バスケットボール)の世界でした。努力が実を結び選手を揃える強いチームで真剣に活動していたため、そこでの指導も厳しく男子を相手に試合をしたり、盆正月以外は殆ど休み無く練習の日々でした。
でもそのお陰でバスケットボール一筋で進学から就職まですることができました。17歳の時バスケットボールを通じて同級生との交際が始まりました。
3年半後お互いに結婚を意識するまでになりましたがその時私は社会人、彼は学生という状況と家柄の違いを理由に彼の両親から別れさせられ、ここから私の人生は狂い始めたように思います。
「子どもはいらない」が条件の結婚
選手としてのピークも過ぎ、競技としてのスポーツよりも、楽しむためにありとあらゆるスポーツをするようになりました。22歳、スキー場で知り合った7歳年上の男性と交際が始まり、彼の友人の一人と24歳の時に結婚しました。
私は早く結婚することへの憧れ、早く家を出たいという気持ちが先走り、「子供はいらない」「仕事は続けること」という条件をあっさりのんでしまいました。
でもその価値観は年が経つに連れて2人の中でずれてしまい、私は「子供が欲しい」主人は「子供はいらないというから結婚したのに・・・」といい、セックスレスが2年半続きました。
ある日私が体調を崩して仕事を早退して家に帰ってみると、部屋でエロ本を見ながら自分の始末をしている主人を目の当たりにしてしまいました。そこで私の妻としての限界がきました。
主人からも「いつでも別れてあげる」と言われて、自分がここにいる意味がわからなくなってしまいました。
寂しさを埋めるための不倫
私は外へと目を向けるようになり、不倫を重ねました。携帯電話が主流になり始めた時代です。今で言う出会い系サイトで1人の男性と知り合いました。
私と同い年でした。少し距離はありましたが、お互いに寂しさを埋めるかのように急接近していきました。
主人はようやく私の異変に気が付き、知り合った彼のことがわかってしまいました。主人と彼は2人で会い、話をした後主人は泣く泣く引き下がってくれました。
そのとき主人は彼に「あいつ(私)は君が必要ではなくなったらあっさり捨ててしまうよ」と言ったそうです。主人は私に対してそんな風に思っていたのです。
主人の最後の優しさとして慰謝料の請求はなく、私は自分の荷物だけを持って家を出ることになりました。離婚届けにサインをした後、「子供のことも考えてみるし、今夜だけでも戻ってこないか」と言われた時は少し心が揺れました。
私が求めた暖かい家庭
新たな交際に私が求めたものは暖かい家庭でした。優しいお父さんと子供のいる生活です。30歳を目前にした2人はとにかく焦って「結婚」を目指しました。
離婚後6ヶ月間は次の結婚ができない私を待っていたかのように7ヶ月目で入籍をしました。
入籍してすぐに子供も身ごもり、2人にとって幸せな時間が流れ出しました。翌年、待望の第1子が誕生・・・と同時に主人は仕事を辞めてしまいました。もともと、家でも職場の不満話が多く、私も心配でした。
でもまた一からスタートすればいいし、子供も生まれたのだから、企業に入って安定した生活ができれば今の苦労も後々報われるはず。そう高をくくっていたのは間違いでした。
再就職の先はなかなか見つからず、主人は「電車通勤は絶対嫌」「車通勤でないと嫌」、仕事を始めるまで収入はなく親のコネで入社できたものの、収入は少なく私の親はこっそり仕送りをしてくれていてたので何とかやっていました。
それでも主人は「車の楽しみだけはやめられない」と言って車には必要以上のお金をかけ、ケチの付いた車には乗りたくないと言って新車1年未満で乗り換えをしたりしました。
それでも車通勤だけに何かあっても困るし、気持ちよく仕事に行って欲しい一心で、自分の不用品をオークションで売ってお金にしてまで協力してきました。私も、この苦労を見方を変えて主人と共に楽しむように努力しました。
年の近い兄弟を作ってあげたかった私はすぐに第2子を望みました。子供ができないと私は相当落ち込んでしまうように見えたようで、主人は仕事の帰りに本屋さんですぐに子供ができる方法を勉強して帰ったこともあるくらいだと言っていました。
その甲斐もあり年子で子供を授かることができました。それは私一人の願いだったのかもしれません。2人の子供(女の子)に恵まれ、私にとって幸せな時間が流れました。
主人も子煩悩で毎日のお風呂は必ず入れてくれていました。男兄弟の中で育った主人にとって、主人の両親にとっても女の子は珍しくかわいい存在だったようです。
しかし2人の子育てに終われる中、主人は私に妻としてのあらゆる役目を求めました。それは彼が育ってきた環境がそうだったからです。
妻は夫の為に朝起きて朝食の支度をし、お弁当を作って仕事に行く時は見送る、帰ってきたら仕事の労を労い暖かい食事を出す。
その傍ら、結婚しても子供ができても譲れない唯一の趣味(車)に走り、妻は夫の要求には応えなければならないというのが、彼の当たり前の環境であり理想だったのです。
一方私は、嫌になったらすぐ仕事を辞め、いつになってもなかなか給料は上がらない、でも趣味は抑制できない主人を心配し内職を始め、2人の子育てと内職に追われる中、3人目の子供が産まれました。
心身共に疲れ果てた状況の中でも主人は私にセックスを求め続けてきました。 気持ちはわかっていても応じる余裕はこれっぽっちもなく、セックスレスが3年続きました。
内職だけでは生活を補っていけないと思った私は半日の外勤のパートに出だしました。それでも主婦として、母として立派にやっていくつもりでした。私は妻としての役割よりも家族として楽しむことに重きを置きました。
「置いてしまった」と言うべきでしょうか?家族で楽しむ、暖かい家庭を築く、そのために夫婦で何をしなければならないかを見失っていました。
この危機をのりこえればきっとまた平穏無事な日がやってくると思っていたのは私だけだったようです。主人の中ではこの結婚生活での不満が蓄積されやりばのない怒りと化していました。
夫が家に帰ってこなくなった
結婚生活7年目を迎えようかと言うある日、主人は仕事に行ったきり帰ってこなくなりました。私にとってはまさに晴天の霹靂でした。それでも話し合いで解決できると思っていました。
まさかあの主人が私たちを見捨てるなんて思っていませんでした。主人はそれまで勤めていた会社も辞めてしまい、一人車で生活を始めました。
どこにいるのかもわからず、唯一の連絡手段は携帯電話だけでした。その携帯電話もなかなか繋がらずどうしていいかわからない日々が続きました。
主人の希望は「離婚」でした。しかも自分はあくまでも「被害者」だと言います。「応じてくれないのならこのままどこかへ行ってしまう(=死ぬ?)」と言う脅迫にも似たことを言われ私は「子供たちのお父さんの命を守るために」離婚に応じるしかありませんでした。
夫婦喧嘩の延長でしかないのに、何故「離婚」でしか解決できないのか未だに私にはわかりません。でも人それぞれ、色んな人がいるもので、価値観や譲れない線と言うのは様々で「どうにもならないことってあるんだなぁ」と痛感しました。
私は「離婚」の辛さも知っているし、子供たちのことをとても心配しました。何としても「離婚」だけは避けたかった。。。でも願いは届きませんでした。「離婚で1番の被害者は子供」です。
それがわかっていた私は、ネットで見つけた専門家の西田先生に、例を見ない公正証書を作成してもらいました。
子供たちの成長過程で父親の存在をできるだけなくさずにいられるよう、父と子の面接交渉に関する条文をできるだけ盛り込んだ公正証書です。その後離婚届を提出し、受理されました。あまりにもばかばかしくて涙は出ませんでした。
純粋バカで結構!前向きに生かしてやる!
2度目の主人は私の性格を「純粋」だと言っていたそうです。「純粋」とは聞こえはいいですが、主人の言う意味は「純粋バカ」と言うことではないかと思います。
「あぁ言えばこう言う性格も一生直らない」と言われ、もし主人の思い描く人に私が成り変ったとしても、それでも嫌だといわれました。
よっぽど嫌われてしまったんでしょうね。「一生直らない」のだったら仕方が無いです。そんな自分自身を抑えることなく受け入れ、前向きに生かしてみようと考えただけで気持ちがとても軽くなりました。
誰かの為に変えようなんて思わなくていいのです。今私は3人の子供とシングルマザーライフを送っています。離婚を悩んでいる方、離婚はしたいけど子供の養育で悩んでおられる方、様々だ思います。私は3人の子供を手放す気はこれっぽっちもありませんでした。
他人から見れば夫婦喧嘩の延長程度のことでしたが最終的には慰謝料ゼロで離婚し、現在は元主人名義の家に養育費と同額の家賃を支払って住んでいる始末です。
でも「子供だけは絶対手放したくない」「子供の生活環境を少しでも現状維持したい」というのが離婚をせざるを得なかった時に私が考えた本音です。
「離婚の一番の被害者は子供」というのは西田先生などの専門家をはじめ、離婚経験者の多くが語るとおりです。
私も自分がその立場にたってみて「その通り」と痛感しました。 「2度目の離婚」が幸いしたのか、その点は冷静に判断できたつもりです。
3人の子供は自分で育てる!という私の意気込み
次に力を入れたのは、自分で生計を立てていくことでした。私は今、3人の子供を自分の手で育て上げる意気込みを持って仕事をしています。
そしてしたたかに計算し、自分へのご褒美も忘れていません。3人の子供をかかえて大変だというイメージが強いかもしれませんね。今の所、「大変」だと思ったことはありません。西田先生の奥様である離婚カウンセラーの西田真由美さんからいただいたアドバイスなのですが
「一度にたくさん頑張らなくてもいい、ちょっと頑張るだけでいい」
「いいことは、すぐに始めましょう」
この言葉でとても気持ちが楽になって、最近子供達にもよく言っています。将来のことも心配しないではないですが、できる範囲のことでかまわないと思っています。ただ、「お金が無いから学校へいけない」これだけは言いたくないと思っています。
その後、私は公正証書の約束を守ってもらうべく、父親と子供が会えるようにと願って主人に連絡を取り続けました。
しかし、この連絡こそが主人にとってまたもやストレスとなり、電話の着信記録に怯えるようになり睡眠薬に手を出してしまったようです。
幸い通りがかりの人に助けられて病院で手当てを受けることができたそうですが、自体を重く受け止めた。主人の母親が私たちの元へ来て「息子は携帯電話も潰してしまったし、しばらく連絡はしないでほしい」と言いました。
そして・・・主人は意識朦朧とした中「自分は子供を捨てたんだ、でも息子の親権だけでも取りたかった」と言ったそうです。
3ヶ月ほど経った頃、突然の電話が2回ほどかかり、とりとめのない話をしましたが、ある日の夜中の1時半・・・喪服を取りに来たと言って勝手に鍵を開け、寝ているところを起こされました。 とっさに考えることができなかったのですが、今思うと怖いこと(=犯罪)です。
父の帰りを信じて待つ子供たち
それ以来、クリスマスにも年末年始にも連絡一つありませんでした。子供たちは父親に会えなくなって半年以上経ちました。
幼いことと、ちゃんと話していないことでまだお父さんは帰ってくるものだと信じています。私にとっての主人と、子供たちにとっての父親は別の関係であり存在なので、子供の気持ちを無下にすることはできません。
「信じる気持ち」「優しい心」はずっと大切にして欲しいし、傷つけることはできません。子供は「お父さんはいつ帰って来るの?」「お父さんに会いたいよ」とぶつけてきます。
そう感じることは普通だし、まっすぐに成長している証なのです。 言ってはいけないことだと思わせずに敢えて「思ってることは言葉に出して言いなさい」「泣きたいときは泣いていいよ」と言っています。
こんな大きな問題を背負わせてしまっているのですから子供の精神状態には人一倍気を使います。そして、「いつ帰ってくるかはわからない」「でもまたいつかきっと会えるよ」と言っています。
お母さんは世界一やもんな!
今、子供は小学1年生、幼稚園年長、保育園3歳児です。できるだけ親の手を借りず自分たちだけでやっていこうとしています。
上の2人はお弁当を作っておけば、自分で家の鍵の管理をし買い物もでき、朝から夕方までお留守番できるようになりました。仕事が終わって家に帰るとよく玄関のところに手紙とお茶を入れて置いてくれています。
それがどんなに嬉しいか。夕飯も一緒に台所に立ってよく手伝ってくれます。弟のトイレの世話もお姉ちゃんたちがしてくれます。
最近は子供たちだけでお風呂にも入るようになりました。子供は状況に応じた成長をしてくれます。そんな子供たちを私はこれからも守っていく義務と責任があります。大したことはできないけれど私はこんな言葉で子供をたちに語りかけています。
- 「あなたたちのことはお母さんが絶対守ってあげる」
- 「お父さんがいないことは悪いことじゃないんだよ。お父さんのいない人、お母さんのいない人、世の中にはいろんな人がいるんだから」
- 「あなたたちのお母さんは”世界一のお母さん”だから安心して、学校へ行きなさい、幼稚園に行きなさい、保育園に行きなさい」
そう言って両腕の力こぶを作って見せてあげると「すご~い!」と言って納得(?)してくれます。(いつまで通用するかわかりませんが・・・)
そして私たち親子は「笑い」が大好きで「笑う門には福来る」ではないですが、よくお笑い番組を見て大爆笑しています。それも元気の素になっています。
ある日子供が「うちたちのお母さんは世界一やもんな」と言ってくれました。私は子供が3人いて良かったと思いますし、子供の存在はとても力強いです。もう一人いても良かったかなと思うくらいです。
これから子供が大きくなって進学するようになるといろいろと心配だと思う方も少なくないとおもいますが、私は「今」楽しく生活できることがこれからも楽しく暮らせることの原動力になると思っています。
頑張ってると、いいことありますよ~。去年の12月23日クリスマス商戦の中、私はたまたま行ったおもちゃ屋さんで並ぶことなくPS3(60GB)とWiiを同時に買うことができたのですから・・・(こんなことで喜べるようになれば少しでも幸せに暮らせるかもしれませんよ)
裏話(どうせなら明るい母子家庭に!)
私にはシングルマザー歴を持つ友達が何人かいて、いろいろと相談したり話をしたりするのですが、母子家庭って思っているほど(経済的に)悪くないよね~ってみんな言ってます。
とにかく子育てと両立して仕事ができれば何とかやっていけます。夫婦で家族をやってる時よりいろんな面で楽だから、子供連れで再婚した友達は結婚したら経済的にしんどくなるから迷ったと言ってました。
私から見れば旦那様のお世話までしている人の方がよっぽど大変だなぁと思うくらいです。再婚した友達もシングルマザーやってた時の方が楽しかったし私のことを「羨ましい」と言っていました。とにかく明るく前向きでなくっちゃ!