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夫婦問題の相談に対応するのは、カウンセラー兼行政書士である西田和雅です。他人に夫婦問題の相談をする場合、普通は「どんな人が対応するんだろう」と思いますよね。経験・知識・資格などが気になる方もいれば、どんな思いで仕事をしているか、という信条面を重視される方もいるでしょう。その他、相談に直接関係のない出身地・趣味・年齢などから、親近感や安心感を持つこともあるかと思いますので、自己紹介をさせていただきます。

子供の目から見た離婚(西田和雅自身の体験記)

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私は仕事で離婚問題の相談を行っていますが、私自身に離婚の経験はありません。ただ、私の母親が二度の離別(離婚と事実婚の解消)を経験していますので「子供の目からみた離婚」という形で体験談をご紹介しますね。この体験談は、別ページに掲載していますので、下記リンクからご覧ください。

”カウンセリング”に関する考え方

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私は、平成16年に兵庫県高砂市で夫婦問題の相談業務を開始しました。開業当初は当然、知識・経験共に不十分でしたが「真面目に頑張っていれば何とかなるはず」という楽天的な性格が幸いし、勢いに乗って仕事を続けていました。ただ、私の地元は岡山でしたので「どうせ戻るなら早い方がいい」と考え、平成18年に岡山に戻って新たなスタートを切りました。そんな慌ただしい開業から20年経って思うこと…それは「離婚問題で一番大切なのは心の問題の解決だ」ということ。どれだけ有益な法律や知恵も、使う人間の心が不健全だと役に立ちません。

たとえば、離婚後に子供を育てる親などは、別れた配偶者に養育費を請求できることを誰でも知っています。しかし、本人に請求する気が無いなら知識があっても意味がありません。「お金をもらえる権利があるのに請求しないなんてホント?」と、思われる方も多いでしょう。しかし、現実は法律の理屈だけで動いてはいません。別れた夫と関わりたくない人は「養育費をもらうと、二度と関わりたくない夫とまた定期的に関わらなければいけない……」という思いから「養育費はいらないから今後一切子供に会いに来ないで」という言葉が出たきたりするんですね。離婚した私の母がそう言って、息子の私が実の父親に会う権利を奪いましたから間違いありません。

「夫と関わりたくない」という感情で養育費を請求しないと決めこんでいる人に、いくら養育費を請求する権利があると法律的な理屈を説明しても通用しません。私は、離婚問題を良い形で解決させるために一番大事なことは「恐怖に打ち勝つこと」だと考えています。なぜなら、解決に必要な決断や行動を毎回邪魔するのが恐怖心だからです。私は20年間相談を続ける中で、その現実を嫌というほど痛感してきました。恐怖に縛られている人は必ずこの発言を繰り返すんですね。

自分が~をしたら(A)をされるかもしれない。

もうお分かりだと思いますが(A)には必ずネガティブな言葉が入ります。自分が何か動くと必ず良くない結果が訪れると思い込んでいます。たとえば、離婚について調べていることがバレたら夫に激怒されて、こんな展開になることを恐れているわけです。

大声で怒鳴られるかもしれない
暴力を振るわれるかもしれない
離婚を宣告されるかもしれない
生活費を渡してくれなくなるかもしれない
子供を連れて家を出て行かれるかもしれない
調停や裁判を申し立てられるかもしれない
慰謝料を請求されるかもしれない。

恐怖に縛られるとこんなネガティブ発言を繰り返してしまいます。人の性格や考え方はそう簡単に変わりません。絶対に無いとは言い切れない現実に恐怖心を持つと、必要な決断や行動ができなくなるのです。もしそんな恐怖心を持った人が変われる可能性があるとすれば、それは誰かの助けを受けて、自分で新たな一歩踏み出す勇気が湧いた時。そこが一番大事でそこが一番難しいんですね。

行政書士西田

私は開業当初「法律上の理屈を説明すれば分かるはず」と思って様々なアドバイスをしました。しかし、ネガティブな思考に縛られている方は、頭で決断や行動をした方が良いという理屈が理解できても「~すると~(不幸な出来事)になるかもしれない」という漠然とした恐怖心が、本人の判断や行動を鈍らせるのです。

私は開業当初「法律上の理屈を説明すれば分かるはず」と思って様々なアドバイスをしました。しかし、ネガティブな思考に縛られている方は、頭で決断や行動をした方が良いという理屈が理解できても「~すると~(不幸な出来事)になるかもしれない」という漠然とした恐怖心が、本人の判断や行動を鈍らせるのです。

ではどんな方法で改善させていくのかというと、結局、相談者と腰を据えてじっくり話し合うしかないんですね。シンプルですがこれが一番難しくて一番大変。ただ、私の20年間の経験で言わせていただくと、長期間真剣に向き合い続けると、徐々に信頼と勇気が生まれて大部分の方が動けるようになってくるんですよ。

私が夫婦相談を続けてきて分かったこと、それは、勇気を持って行動したら、事態が好転する確率が格段に上がるということ…そして、思い通りの結果が得られなくても前に進めるようになるということです。よく 、やる気になれば何でもできるなんて言いますが、逆に言えば、やる気がなければ何もできないということ。だからこそ、決断や行動の原点である”やる気”を引き出すためのカウンセリングが必要なんですね。

全部自分で判断や決断や行動ができるならそれが一番良いと思います。ただ、自分でできないなら無理をせずに誰かの力を借りて前に進みましょう。自分は一人では何もできないって思うとショックかもしれません。でもそれは勘違いです。自分一人で何でもできる人なんていません。

弱さを認められることは強さの一つです。家を建てるのだって、みんな自分では建てられないから大工さんにお願いしますよね。自分では家を建てられない事実を認められなかったら一生家は建てられません。お医者さんに体を治療してらもらうことも、農家の人にお米を作ってもらうことも、道路の工事をしてもらうことも、自分の身の回りのほとんどのことは、みんな誰かの力を借りて生きています。

だから、自分一人で人生の第一歩が踏み出せないなら、誰かの力を借りればいいんですよ。どんな方法を使おうが、自分の恐怖心に立ち向かう覚悟ができたら勝ったも同然。自分が決めたことを一つ一つこなしていけば、良くも悪くも人生は前に進み始めます。怖くて動けない状態を続けるよりよっぽどいいですよ。

私が公正証書を作る目的

私が公正証書をどんな思いで作っているかを話す前に、まず3人のイソップ寓話のレンガ職人の話をしますね。3人のレンガ職人が毎日レンガを積んでいると、ある人が「あなたはどうして毎日レンガを積んでいるのですか」と尋ねました。すると、職人ABCはそれぞれ次のように答えました。

職人A

レンガを積んでいるんだ

職人B

レンガを積んで壁を造っています

職人C

人々に安らぎの場を与える教会を造るために、まずはレンガを積んで壁を造ってるんだよ

さて、あなたは3人の職人の考え方をどう思いますか?表面的には同じ「レンガを積む」という仕事でも、3人の仕事の目的は違っています。レンガを積む事自体が目的の職人より、壁を作る事を目的にしている職人の方が明確な目的があるので良い壁に仕上がるでしょう。しかし、協会を利用する人々をイメージしながらレンガを積む職人は、教会全体を考えて仕事をしているので、壁だけを考えている職人より良い仕事をする可能性が高くなりますよね。目的が違うと行動や結果が変わってきます。

私はこの教訓を元に「私の仕事は公正証書を作ってお客さんを幸せに近づけるのが私の仕事」と考えています。いくら表面的に完璧な公正証書を作ってもお客様が幸せに近づけなければ意味がありません。たとえば「どんな手を使ってでも養育費は払わない」と決意した人を相手に公正証書を作っても、逃げる人は逃げます。逃げると覚悟した人は、職を変え、転居を繰り返し、財産の名義も変えます。

お金を払う人が徹底的に逃げる気なら、どんなに公正証書の形式が完璧でも、実質的な価値は無いに等しいんですね。逃げると覚悟した人の話からも分かるとおり、本当に必要なのは公正証書という形ではなく、当事者の「契約を守ろうとする心」です。そしてその心を作り出すのがカウンセリングだと思っています。

過去に経験した仕事

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専門家が過去にどんな経験をしたかは気になるところだと思いますので、以下にご紹介していきます。

農協(JA)

私は、岡山の商業高校を卒業した後「何となく安定してそうだから」でいう理由で就職し、当初は、夢と希望を持って真面目に働いていました。しかし、真面目に仕事のことを考えるほどに「何でこんなやり方なの?」と疑問に思うことがたくさん出てきました。

ご存知の方も多いと思いますが、農協の支所・職員には毎年「共済(保険)」を売る一定のノルマが課せられます。ノルマ自体に否定的な考えはありませんでしたが、組合員の「農協は共済ばかり勧めるんじゃなく、もっと農家のことを考えた仕事をせんと!」という声を無視して毎年ノルマの達成を目指すことに苦痛を感じていました。そんな私が退職を決意したのは、頑張ってノルマを早期に達成したときに上司から言われた次の言葉がきっかけです。

「早く目標を達成すると簡単に目標を達成できると思われて、来年のノルマが大きく増やされる可能性があるから、あまりやり過ぎないように・・・」

この言葉から、農協が業績を積極的に伸ばそうとする気が無い雰囲気を察しました。農協にも能力があってやる気があって人間的に素晴らしい人がたくさんいました。しかしそのような方々も、変化を受けれない農協の体質を変えるまでには至らず、長年勤める中で「長いものには巻かれろ」という(ある意味では)大人の考え方に変わって溶け込んでいる様子でした。

しかし私は、そういった世界に溶け込めないタイプだったので「自分がいても安定した農協の秩序を乱すだけ」「自分がこの職場を選んだことが悪いんだ」と考え、退職を決意しました。ただ、高卒の自分が何の能力も持たずに退職するのは良くないと考え、在職中に宅地建物取引主任者(現在の宅地建物取引士)の資格を取得したのちに退職しました。

司法書士事務所

司法書士の勉強中、実務も覚えようと就職先を探し、たどり着いたのが香川県高松市の司法書士事務所。私の出身地は岡山県岡山市ですが、司法書士の募集先が近隣になかったため県外に出ました。

ここでの出会いは私の人生で大きな意味を持つことになりました。多くの尊敬する先生方と巡り会うことができ「世の中そう捨てたもんじゃないな」と本気で思いました。「孟母三遷」とでも言いましょうか、人間育つ環境は本当に大事だと感じました。

アルバイト

私は資格の勉強をしていた頃、生活費や勉強資金を稼ぐために短期のアルバイトを数多く経験しました。当時は、漫画「ナニワ金融道」の著者である青木雄二さんが、著書の中で「若い時は経験のために色々な仕事をした方がいい」と語っていたり、矢沢永吉さんの「20代で苦労した者だけが、30代で夢の世界を見ることが出来る。」といった言葉に影響を受けて、トコトン経験してやれとばかりに、短期のアルバイトに挑戦していました。

ただ、家賃・水道光熱費・食費・司法書士の勉強費用などを工面しつつ、司法書士の勉強時間を確保するのは本当に大変でした。特に、長年続いた司法書士の勉強では、LEC東京リーガルマインド、司法学院、早稲田セミナーなどの受講費用を毎年工面するのが大変で、この時勉強に専念したくてもできなかった苦しい経験から「自分の子供には絶対に勉強に集中させてやろう」という思いが強くなりました。

不動産会社

不動産業者の広告活動として看板を貼るお願いをしたり、家賃管理の事務作業などをしました。当時はパソコンを使わずに事務をしていたことを振り返ると、相当な月日が流れたんだなと思わずにいられません。

JAで働いていた頃に宅地建物取引主任者(現「宅地建物取引士」)の資格を取得していたので、少しはその知識を生かせるかと思いましたが、最後までその知識を生かす場面はありませんでした。よくよく考えれば、短期のアルバイトで働いただけなので、そんな人材に不動産の仲介など任せられるはずがありませんよね。当時はそんなことも分からない若造だったんだ、、、と今になって気づく私でした…。

印刷工場

印刷工場の本を片付ける仕事もやってみました。この仕事では「紙はとにかく重い」と思いましたね。最初から最後まで肉体労働でもうクタクタ。印刷内容を見るとB級のHな漫画本ばかりでした。その会社の社長が出てきて「こんなくだらない本、ホントは印刷したくないんだけどなぁ…」なんて愚痴をこぼしていましたね。それにしても何でそんな場面を覚えているんだろう?どんな記憶が長く残るかは本人でもホントわかりませんね。

大手運送会社2社

日通のペリカン便とヤマト運輸で荷下ろしのアルバイトもやってみました。正直死ぬほどきつかったですね。長年働いている人は本当に凄いと思います。社員の一人に、全ての言葉が人を嫌な気分にさせると言っても過言ではないような年配のジジイがいましたね。当時は私も他のアルバイト同様に殺意を覚えましたが、後にブラック企業と騒がれるようになってからは「あのジジイも相当虐められてあんな性格になったのかな」と思ったりもします。

工事現場の警備(交通整理など)

日当が高めだったので工事現場の警備の仕事もやってみました。職場に行くと、タバコを吸いまくる人が大勢いてて、吸わない私は煙たくて死にそうでした。そんな人が一つの部屋に30人くらい集まるので、部屋はタバコの煙で真っ白。目はチカチカするし、タバコの匂いは服に染み込むし、もう最悪の気分でした。集まる人もガラの悪い人ばかり。怒る必要のないことで急に怒鳴り出す動物みたいな人間がいましたし、ライオンのような金髪頭もいましたし「ここは動物園か」と思いました。

ファーストフード店

JA(農協)で働き始めて1年ほど経った頃、副業はダメなのですが、仕事が終わった後の時間帯に数時間、ファーストフード店のロッテリアで働いていました。当時は「どこまで働けるか自分を試してみよう」といった感じで、約2年間365日休まず働きましたね。

当時19~20歳だった私は、アントニオ猪木の「元気があれば何でもできる」のようなテンションで、積極的に働いていたので、それほど苦痛ではありませんでした。ただ、ロッテリアの従業員がしなければならなかった「ハイ、サンキュー」という返事だけは最後まで馴染めませんでした。

鰹節工場

高校を卒業する直前の頃、母親が働いていた鰹節工場で、夕方から2時間くらいアルバイトをしてみました。生まれて初めてのアルバイトで、最初にもらった金額は2か月で確か5万円くらい。そのお金で25型のテレビを買ったことは今でも覚えています。

花屋

花の管理は本当に大変。花に興味のない私は、お客さんから「これは何の花?いつ頃咲くの?」などと質問されてもさっぱり答えられず、気マズイ思いをしました。そういえば朝市でも花を売ったりしたなぁ…。ちなみに私の妻はいけばなの小原流で2級。私にはその価値がよくわかりません。ただ、玄関にいけばなが活けてあると粗野な私でも心が和みます。

パチンコ店

パチンコやスロットは全くしないのに、パチンコ店で2か月ほど働いてみました。パチンコ店は、タバコを吸う人が多いので、仕事が終わると体中がタバコ臭くて仕方ありません。パチンコをしない私には、タバコ臭いあのホールは最悪の環境でした。

同じアルバイトの人間が麻雀に誘ってきたので、少しくらいは交流を持たなければと、一人の男の家に私を含めた4人の若者が集まりました。麻雀をしている最中、その中の一人が「面白い物持ってきた」とある物を取り出しました。なんとそれは、今で言うところの危険ドラッグ。それを見た他の二人は「スゲー!」といって興味津々。ついには私を除いた3人が吸い始めます。

その様子に呆れた私は「帰らせてもらうわ、俺はこんなことをしに来たわけじゃないから」と言って帰ろうとしました。 すると去り際に一人の男が私に「けっ、真面目すぎるんだよ、面白くねー奴」と言いました。 そう、あの環境では危険ドラッグを拒否することは「真面目過ぎる」と評価されることだったんですね。

こんな経験から私は「育つ環境は本当に大事」と思うわけです。強い信念を持たない人間がこういった世界に入ると、すぐにその世界の色に染まって抜け出せなくなるのだと思います。

タオル工場

ホテル等で使用したタオルを洗濯・クリーニングする仕事を約1週間しました。結構キツくてヘトになりましたが、一緒に働いているおばさんたちは、疲れをみせることもなくパワフルに働いていました。

今の日本があるのは実はこの人たちのおかげかもしれない、なーんてのは大袈裟かもしれませんが、男性は外で働き家事もする女性を尊敬しなければならないと思います。

大手パン工場

徹底的に計画され尽くした業務内容にビックリ。アルバイトの働き方も機械と同じです。緻密な指示ができる職場では「命令されたこと以外はしないこと」と言います。

逆に「言われなくても出来なきゃいけない」などとカッコいいことを言う人に限って、最低限の指示さえできません。この工場の徹底した管理体制は見事ですが、人間が機械化しすぎのようにも感じました。

ラブホテルのフロア係

どんな世界なんだろう興味を持って友人と一緒に働いてみましたが、結構キツイ仕事でした。特に風呂の掃除が大変。洗った後は、大きなタオルを何枚も使って、風呂場の水滴を全部拭き取ります。

働いているのは、近所のおばちゃん的な女性や、フツーのサラリーマン男性など、真面目な人が多かったですね。経営者も、その正体は農家のオジサンだったりして…実際は何のドキドキ話もありませんでした。この業界は結構真面目な人が多い、というのが私の感想です。

通行量調査

道路を通行する車の数を数える仕事です。今はあまり見かけませんが、昔は道端で若者が交通量を計っていたりしたんですよね。冬の深夜から朝にかけて交通量を数えたこともありますが、寒くて死にそうな思いをしました。途中でつい寝てしまって交通量を数えられなかったときは、後で適当な数字を書いて胡麻化していました。調査会社の方、ごめんなさい。

運転代行

無線がとにかく聞き取りにくかった。どんなに耳をすましてもよく聞こえないのです。それはさておき、やたら威張り散らす従業員がいて頭が痛くなりました。人生長くないのですから、あまり変な人間と関わりあいたくないものです。

スーパー・コンビニ等の開店準備

派遣会社から「1日だけのアルバイト」ということで、様々なお店の開店の準備作業に何回か駆けつけました。仕事の内容は、開業するお店の社員の指示に従って物を運ぶだけ。

ゲームセンターの管理

一番楽な仕事だったかも。とにかく店内を見回る。タバコの吸殻を片付ける。そんなところかな。辛いといえばずっと立っていることくらいかな。

JA共済の勧誘

派遣会社からの紹介でJAの共済を飛び込みで勧誘することになりました。時給1500円だったかな。「昔JAで勤務していた」という経歴だけで選ばれたようです。

スポーツ(観戦含む)

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人のタイプを考えるとき「文科系か体育会系か」という点で人物を判断される方もあると思いますので、スポーツの実績や経験、関心などを以下に掲げます。

柔道

小学校4年生から高校卒業まで一貫して柔道をしていました。高校生の頃はやたらと背筋力があり、3年生の頃には210キロを記録していました。妻にそのことを話すと「過去の話でしょ!」と一喝されますが。しかし、柔道自体は大して強くありませんでした。簡単にいうと「センスが無い」ので、技にキレがなく、投げ技でカッコよく一本勝ちするようなことはほとんどありませんでした。

とはいえ、小学4年生の頃からずっと柔道一筋でしたので、そう簡単には投げられない「粘り」だけはありました。ですから、試合をすると「倒せないけど倒されない」という時間がかかって見栄えのしない内容が多かったのです。また、技のキレがさほど求められない寝技は結構強く、高校3年生の時には、他行との合同練習でも試合でも寝技で負けたことはありませんでした。

ですから、このような特性を生かそうと考えた高校の柔道の先生は、私が高校3年生になって団体戦で戦う際「先鋒・次鋒・中堅で何とかポイントを取り、副将・大将は負けずに逃げ切る」という戦略を取り、確実なポイントは期待できないが倒されにくい私を大将に据えました。

当時の私は最も軽い「60キロ以下級」の選手でしたが、団体戦は体重が無関係であったため、他校の重量級の選手と対戦してばかり対戦し、必死に負けないよう「耐える」試合を続けていました。当時は深く考えることもなく戦っていましたが、振り返ってみると、この時の「センスはないが負けずに耐えて頑張る」という生き方を、その後もずっと続けているな・・・というのが率直な感想です。

さて、柔道競技での成果といえば、中学生の頃に市大会で準優勝、高校の時に県大会でベスト4に入ったくらいで、団体戦も高校時代はほとんどベスト8どまりでした。当時は漠然と「たくさん練習した人ほど上手くなる」と考えいましたが、今では「いくら頑張ってもよく考えて効率的に練習しないと大して上手くはならない」と考えが変わりました。

小学4年生から柔道を続けている割には大した成績は残せなかったのは「いつまでに、どんな目標に向けて、どんな方法で頑張るのか」という点の十分な検討・計画・実行ができていなかったからです。この点はスポーツだけでなく、学校の勉強、資格の勉強、仕事やプライベートの人間関係でも同じなのですが、当時の私には分かりませんでした。

サッカー

当時は今ほどサッカーは盛んではなかったため、実際にサッカーをする機会はほとんどありませんでしたが、当時「キャプテン翼」というサッカー漫画が大人気で、その影響を受けてサッカーに相当興味を持っていました。ですから、Jリーグが開幕したときは「サッカーもいよいよメジャーになってきた」と心躍る気持ちでテレビにかじりつき、ジーコのいる鹿島アントラーズが大方の予想を覆して優勝したときは感動して、後にジーコの著書を買って鹿島アントラーズのファンになりました。

当時のアントラーズのホームゲームはいつも満員でスタジアムはいつも相当盛り上がっていましたので「こんな試合がいつも身近で見られたらどんなにいいだろう・・・」と思っていました。ですから、自分で独立開業することになったときは真剣に鹿嶋町で開業しようかと考えたりもしました。(実際にサッカーの試合を観に行ったのは10回程度ですが)

サッカーの試合で一番心に残っているのは、月並みですが「ドーハの悲劇」そしてその後の「ジョホールバルの歓喜」と名づけられた、ワールドカップ出場をかけた二つの試合です。「ドーハの悲劇」の試合では、日本中でワールドカップ出場を期待する雰囲気が最高潮に達していたほか、試合のロスタイムまでワールドカップ出場が目前になっていただけに相当ショックを受けました。

テレビの解説者たちもあまりのショックに声が出ずにお葬式のような雰囲気になっていましたが、私もテレビの前に倒れて数分間動けなくなっていました。しかしその4年後、日本はまたもやワールドカップ出場をかけた試合(ジョホールバルの歓喜)でシーソーゲームを繰り広げ、やっとワールドカップ出場を決めたときは、4年前の反動で喜びもひとしおでした。

この時日本中がどれだけ盛り上がっていたか若い方は知らないかもしれませんが、この試合を解説していた山本浩さんは、当時の私の気持ちを代弁するかのように次のようなことを語っていました。このピッチの上、円陣を組んで今散った日本代表は、私達にとって「彼等」ではありません。これは「私達そのもの」です。

他人の試合を自分の試合のように感情移入できる試合はそれほど多くありません。結果が出ないとマスコミは選手をボロボロに叩きまくったりもしますが、私のような周りの人間は結局何もせずに感動させてもらっているだけですから、頑張った選手には本当に感謝しないといけないですね。

野球

小学生の頃、無理やり出された地域の少年野球大会でエラーを連発。自分の責任による失点は確か5~6点あったような・・・。帰り道で「西田のエラーがなければ勝てた」と口々に言われ、それがトラウマとなって野球をやるのが怖くなってしまいました。反骨精神で練習するくらいのパワーがあればよかったのですが、「自分には野球のセンスは無い」と確信し、別のスポーツに目を向けるようになりました。

プロ野球にそれほどはまった記憶はないのですが、清原・秋山・デストラーデ・石毛・辻・・・など、西武の黄金時代は素直に”凄い!”と感動しました。しかし89年、西武に対しブライアントの4連発が飛び出て近鉄が逆転優勝したときは感動しましたね。試合はパリーグの方がホント面白かった。

趣味-映画鑑賞

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オーソドックス過ぎますが、趣味は映画鑑賞。高校生の頃は、勉強を全くせずに1日1作品くらいのペースでレンタルの映画を観ていました。今までで面白いと思った映画を掲げますので、感性面での相性などもご検討下さい。

ショーシャンクの空に

スティーブン・キング原作の映画の中で最高傑作との呼び声高い映画です。観た後に心地良い感じが残る映画って好きなんですよね。心から「良かった~」としみじみ思える作品ってそうは巡り会えません。くらーい気持ちになったときにこの映画を観ると、ティムロビンス演じる主人公アンディに特に感情移入してしまいます。どんなにつらい状況に陥っても絶対に希望を捨てないあの姿を見て感動しない人はいないでしょう。ちなみに映画の評価はこちら

フォレストガンプ

確か「ショーシャンクの空に」と同じ1994年に上映され、「ショーシャンクの空に」を押しのけてアカデミー賞に輝いた感動の名作です。今考えてみるとこの年は当たり年だったんですねぇ。当時はレンタルショップでのフォレストガンプ一色で、ショーシャンクの知名度はイマイチでした(今ではレンタルショップでの人気)

この映画もショーシャンクと同じように、観た後に心地良い感じの残る映画です。主人公ガンプのまっすぐな生き方は、その後の私の生き方に大きな影響を与えたと思います。友達や恋人や親を大事にする。どんなに苦境に立たされてもあきらめず、ひたすら目の前のことに全力を尽くす・・・。そんなガンプだからこそサブタイトルに「一期一会」と付け加えられたのかもしれません。

天空の城ラピュタ

ドキドキワクワクさせてくれる宮崎映画の真骨頂がこの映画だと思います。ストーリーも主人公もそれを取り巻く脇役も全部魅力的!主人公のパズーが「ラピュタは本当にあったんだ!」と叫んだときは、私の胸も同様に高鳴ります。何ていうんでしょう・・・ラピュタって私にとっては「夢」とか「希望」みたいな存在ですね。誰しも冒険心みたいなものが、どこかに潜んでいると思いますが、その冒険心を存分にくすぐってくれるのがこの作品です。こんな冒険をシータと一緒にできたらなぁ・・・と考える男性は他にもたくさんいるのでは?

マルチュク青春通り

韓流ブームに乗って一時期韓国映画ばかり見ていた頃、久々に熱ーい気持ちにさせてくれる映画に出会いました。ドラマ「天国の階段」で大ブレークしたクオン・サンウ主演の青春物語です。(天国の階段も感動して泣きました)今でこそ「マルチュク青春通り」ですが、当初は「マルチュク通り残酷史」というタイトルだったと思います。響きがキツイから手直ししたのかもしれませんが、内容は確かに「残酷な青春の一ページ」を描いています。ブルース・リーが大好きな男性には絶対オススメです。

ジョゼと虎と魚たち

身体障害者である主人公ジョゼ(池脇千鶴)と、大学生の恒夫(妻夫木聡)の恋愛ストーリーです。元々私は恋愛物はあまり見ないのですが、こうして一押し映画を並べてみると恋愛要素の詰まったものが多いですね(笑)とにもかくにも、池脇千鶴の演技にハマッてしまいました。彼女の名演あってこそ、この映画が成り立っているといっても過言ではないでしょう。ただ、最後はなんだかとても切ない気持ちになってしまいましたね。「恒夫!しっかりせんかい!」と言いたい男性は多かったと思いますが、現実の世の中でジョゼを受け入れられる男がどれだけいるだろう?と真剣に考えました。

好きな歌手

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長渕剛

最初にはまったのは長渕剛。心に響く歌詞と独特な歌声にドハマりしました。時の流れと共に、ヤクザの兄貴風、バキバキのキン肉マン風と、表向きには様々な変化がみられるものの、その時々で熱い情熱を持って突き進む点では一貫しているので、ずっと尊敬しています。

好きな曲:「勇次」「STAY DREAM」

尾崎豊

高校生の頃に同級生に進められて初めて尾崎豊の歌を聞いて以降、今でも尾崎豊のファンです。私生活では、世の中とうまく調和を取れなかった側面もありますが、そんな弱さや脆さが逆に彼を身近な存在に感じさせる要因になっているのかもしれません。歌声が心に響く歌手ランキングをつけるとしたら、私の生涯の中では尾崎豊がNO.1。彼が亡くなったときは、親しい友人が亡くなったような心境になって落ち込みました。

好きな曲:「FORGET-ME-NOT」「シェリー」

矢沢永吉

高校生の頃に初めて歌を聴き、その後に矢沢永吉の「成り上がり」を読んで惚れ込みました。永ちゃんに関しては、私と同じように「歌より人間性が好き」っていう人、多いと思います。永ちゃんは私にとって生き方を教えてくれる先生。1997年にイギリスのウェンブリースタジアムで開催されたロックの祭典では、無名ながらもアジア代表として、ボンジョビ・ロッドスチュワート・ロバートパーマーなどと共演し、その歌声で観客を魅了した永ちゃんは日本人の誇りだと思います。

好きな曲:「レイニーウェイ」「トラベリン・バス」

まとめ

いかがですか?長渕剛・尾崎豊・矢沢永吉というコテコテのメンツ揃いを見れば、大体私のタイプはが想像できると思います。こんな年配でコテコテの歌手ばかりを挙げると引かれるかもしれませんので、最後に今時の好きな歌手を挙げてみます。私が好きな最近の歌手は、、、あいみょんです。まあ、大体想像つく感じですよね。こんな風に結構コテコテのタイプですが、興味を持たれた方はぜひご相談ください。